唯一無二のアートスタイルを生み出したnaomariaってどんな人?②

naomariaです。

着られなくなった着物に
もう一度日の目を

をコンセプトに現在(2023年4月)は愛知県豊橋市を中心に国内外で個展や展示会、ワークショップなど開催しています。

初めてここへ訪れた方は「naomariaってどんな人?どんなことをしてきたの?」と疑問に思うはず。ひとことで語れるほど希薄な人生を過ごしてきていないし、そもそも既に人生折り返し地点に到達してるんじゃないか?と思うほど長く生きています。なので、一度ここでこれまでのストーリーをじっくりお話ししますね。分割してお届けです!

 

留学時代

naomariaの自己紹介①にも書いたとおり、幼少期の体験から「旅」に対する憧れは強かった。

留学先での専攻は「旅行学」。旅行業界に関することをいろいろ学んだ。インターンシップは日本人向けの旅行会社。

留学してたのに英語がちっとも上達しなかったんでね。希望のホテルは先生に却下されたのですわ。「あなたの語学力じゃ無理」って。

でしょうね。。。(笑)

留学するまでは、わたくし超箱入り娘。自分一人で何かをするって出来なかった。

何をするにも親の「大丈夫?」がつきもの。
それが心配や不安を生むようになり、いつしか確認作業が伴うように。

親も子離れが全く出来ていないので、何をするにも手を出す。おかげで一人では何も出来ない成人となった。20歳すぎても一人で病院に行けず、付いてきてもらっていたくらい。

その私がよく留学を決意したな、と思う。

このまま大学にいても先がない。
憧れの海外に住んでみたい。

将来への不安と海外への憧れという2つが原動力となって私を突き動かした。たった2つだけど、十分すぎるほどの理由だった。

今まで自分が入っていた分厚く頑丈な箱を一瞬でほぼ全壊にした留学。親の干渉なく自由に生きることの心地よさを初めて知った。だからホームシックは一切かからなかった。

ぽろりぽろりと出てくる私の本来の姿。こんなに自由奔放だったんだ、と自分で驚いた。

殻を破った留学時代。
語学力はいまいちだけど、生きていく上でもっと大事な

自分であること

その一歩を踏み出せた意義はとても大きい。思い切って「留学する」と決めた自分に拍手を送りたい。

 

帰国から起業まで

こうして本来の自分を取り戻しつつあった頃に帰国。

それまでには心変わりして、音楽業界でお仕事をしたくなっていた。
某音楽関係の会社の面接を受けたのだけど、現場で働きたい私にとって、どうしても受け容れがたい差別的発言をされたので辞退した。

こうなったら、、、と
大好きなエアロスミスがいつ来日しても良いように、いつでも海外までライブを観に行けるように、と派遣社員として働き続けた。

まさに”自分”を貫いている生き方。帰国後すぐだから出来たことだろうね。何年か経ち、30歳を迎えるころには焦りが出てきた。

このままで良いのか?と。

(日本に染まり直したね…)

そのころ自宅の建替があったのを機に興味が沸いていたインテリアコーディネーターの試験を受けることにした。

一発合格。

初めて会社員となった。

が、長続きせず。

心身共に疲れ果てた。

”大人”たちに幻滅することばかり。
そんな大人たちがこの社会を形成しているのかと思うと、この先の日本は期待できないな、と感じる事多々。

初めての鬱はそんな理由で突然やってきた。2000年頃。
同じような理由で今回もかなり心は疲弊していた。プライベートな理由(度重なる人の裏切りと借金)も重なり2度目の鬱となる。

小学生のいじめの時「期待しない」と学んだはずなのに。心のどこかで期待していたのか。それとも自分の理想とする大人像が完璧すぎたのか。

こうして仕事も出来ず療養した2007年。

「このままではやばい」という思考が自分の中で湧いてきたときようやく動き出した。

少しずつ少しずつ。
まずは心のリハビリから。

当時気になっていたプリザーブドフラワーを習い始めた。毎日独学でアレンジを作り記録していた。

独学なので成長がなく悶々。
心に負担なく楽しく続けられそうなところを探しレッスンへ通い始める。月日が経つといつの間にか元気を取り戻し、技術も向上していた。

そんな中、就職活動するも全滅。

2007年12月。一念発起し、オンラインでプリザーブドフラワーの販売を開始した。