唯一無二のアートスタイルを生み出したnaomariaってどんな人?①

naomariaです。

着られなくなった着物に
もう一度日の目を

をコンセプトに現在(2023年4月)は愛知県豊橋市を中心に国内外で個展や展示会、ワークショップなど開催しています。

初めてここへ訪れた方は「naomariaってどんな人?どんなことをしてきたの?」と疑問に思うはず。ひとことで語れるほど希薄な人生を過ごしてきていないし、そもそも既に人生折り返し地点に到達してるんじゃないか?と思うほど長く生きています。なので、一度ここでこれまでのストーリーをじっくりお話ししますね。分割してお届けです!

幼少期

私が生まれた70年代。
家の前の道路はまだ舗装されていないほどのどか。そんな穏やかな場所で生まれ育った。周辺にはそれほど住宅もなく、ミカン畑が広がっていた。

実家は自営業。
物心が付いた頃から両親の働く姿を見ていた。
月曜から土曜までみっちり働き、日曜日になれば父親は家族よりも釣りを優先する。

家族で出かけた記憶は長野県の湯治場くらい。記憶にはないだけで、お出かけは数える程度だが写真を見つけた。フェンスにぶら下がっているのが私。

「寂しい」というよりも、同級生のお出かけの話を聞くたびにうらやましかった。

○○へ行った、と聞くたびに想像が膨らむ。どんな場所だろう?と。

想像するばかりの日々。うらやましがる日々。
大人になって自力で実現できるようになったとき、初めて幼少期のこの達成されなかった小さな願いが叶った。

これが私の旅好きの原点でもあるかもしれない。

そう。。。

父親の作る疑似餌がとても美しく、いつも惚れ惚れしながら見ていた。特にグラデーションが印象的でコレクションしたかったけど「高いんだよ!」と、はっきり断られた(笑)。

私の色に対する開眼はこのときだと思う。

 

学生時代

小学2年生のときいじめにあう。
当然SNSなんてない時代なので今ほど陰湿ではない。

一学期始業式の夜、水疱瘡にかかり翌日から1週間学校を休んだ。

晴れて学校へ行けた日。いきなり無視され始めた。そんな状況なので全く腑に落ちず。あっけにとられたのとむかついたのと、いろんな感情が入り交じっていたのを思い出す。

担任の先生に相談したが、笑って流された。
私も深刻に訴えなかったからだと思うけど
「この人に言ってもダメだ」
と10歳にも満たない幼い子供がすでに「期待しない」「諦める」ことを覚えてしまった。

そういえば、年長時の先生から意地悪を受けていたので、信用していい大人と信用ならない大人の区別を無意識でしていた気がする。

(先生は意識的に意地悪をしていなかったかもしれないけど、幼い私は十分傷ついたんだよね。無意識って怖いね~)

小学3年生では担任の先生に恵まれた。そこで初めて大人を区別していたことにうっすら気がづいた。

この後、小学5,6年の先生(同じ先生)に幾度かひどい嫌がらせを受けた。これ以降、この区別は自分を守るために必要不可欠な手段となった。

先生のくせにこんなことするんだ!

先生というのが”絶対的な存在”だった時代。腹の中に収めるだけで精一杯だった。もちろん人間不信にならない理由は一切ない。

思ったことをすぐ口にしてしまうのと曲がったことが大嫌いなので、先生にとって不都合な正義感を振りかざしていたこともあると思う。

(もう完全にADHDの為せる技だよね。←病院で疑いありの診断済み)

それが先生にとっては面白くなく、もちろん私自身にも落ち度があると判断しての事だと思う。それがクラス全員に見せつけるような痛み付けに繋がっていたのかと。

簡単に言えば公開処刑

子どもだけじゃなく大人だって傷つくことなのに。
それを絶対的権利者の先生に幾度もされたことに、今でも心に引きずっている。

しかし、、見事に女性の先生ばっかなんだよね。。。だから女ってめんどくさっ、って思うようになったんだよ(笑)。コレは今も変わらない。

中学時代は、先生にも恵まれ、楽しい3年間を過ごした。当時の先生とは今でもお茶したり飲みに行ったりするくらいの仲。恩師というものはこういうものなんだ、となんだか嬉しくなる。ここでの恩師は男性ね。

そして高校時代。進学校だったのでみんな優秀。ひとりだけ落ちこぼれのような気がしてならなかった。

(数年前の同窓会で、みんな同じ思いを抱えていたことを知って驚いた。みんな自分だけが「苦しい」「つらい」「不幸」みたいに思う生き物なんだね~。ま、悩みや苦しみを共有しないから他人の心の内を知れず「隣の家の芝は青い」的な思考にとらわれるんだよね)

話を戻して、、、

自分だけダメ人間に思えてしまったのは、高校受験の時にすごく頑張ったので、入学後には気力が完全に失せてしまい、まともに勉強してなかったからだろうなぁ、と。

「卒業できないぞ!」なんて言わせるほどの成績をかまし続けたしね。本当にダブったらしゃれにならん。。。と焦るもなんとか無事卒業デキマシタ。

大学も、行く意味が全く分らないけど、進学校に入っちゃったもんだから行くしかない(と当時は思い込んでた)。

当時付き合っていた彼氏が理系だったので、文系のくせして私も理系を選択。理系の4大に入学となりました。(よく合格したな、、と驚くよ)

転換期を迎えた大学時代

理系の大学。1年生はまだ基本科目が多いのでなんとかこなしてた。
ただ専門科目は宇宙語が飛び交うような時間で、本当に辛かった。
情報科学だったのでPCメインのクラス。筆記試験じゃなかったのが救いだった。

1年生が終わった春休み。
かねてから憧れの海外へ行くこととなった。大学主催の短期留学一ヶ月。カリフォルニアにある大学の提携校で語学を勉強した。

このとき、世界の広さに驚愕し、私が目を向ける先はひたすら「海外」となった。

高校生の時に洋楽にはまり英語漬けだったんで自信があったのだけど、留学先でのクラスは最下位のクラス。あまりのショックで帰国後すぐに英会話教室へ入った。

どんだけ自意識過剰だったんだろう。。なんかここで嫌われる要素が見え隠れしている気がする(笑)。

そういえばこの留学期間中、一緒に行っていた先輩達に「(本名)ちゃんって疲れるよね~」「一緒にいるとしんどいわ」と陰口叩かれていたのを思い切り聞いてしまってものすごく傷ついた。

この時は「なんでそんなこと言うの?」と悲しくなったけど、今ならよーくわかる。

そりゃみんなと一緒じゃない性質が多すぎるから理解不能なんだよね。よく言う「普通」から逸脱しているんだもの。

(そもそも「普通」って何?なんだけどね。そんな疑問も昔は皆無だった気がするわ)

今こうして表現者として生きていると、逆にそれが武器になるけれど、そうなるまでの数年前までは苦しみの種でしかなかった。今もまだ余韻はある。

2年生となり専門科目が増えてきた。付いていくのが必死。加えて就職難が始まる。このままでは「私、就職できないだろう」と焦りだしたので、大学をやめることにした。

退学して留学

学部長からは「みんな3年が終わってから留学するのに珍しいね」と。まさか退学するなんて言えないから笑ってごまかした。

業者は一切通さず自分で全て手続きをし、準備が整った。

成田空港まで母親と母親の友人が見送りに来てくれた。

晴れて機上の人に。
期待を胸にアメリカはボストンへと向かった。

なぜボストンかって?!

当時夢中になり、その後の人生の軸ともなった大好きなバンド エアロスミスのホームタウンだから♡留学前に2度ライブを観にボストンまで行っている。10代でそんなことを平気でしていたんだよね。すごい行動力だわ。