アーティストがたどり着く「孤高な生き方」

随分前に、日曜美術館の渡辺省亭を観て改めて感じた。

孤高な人の心の在り方を。

 

彼は、敢えて「孤高」を目指したわけではなく結果そうなった。

名が売れるために公募に応募したり、繋がりを持つためにグループに所属したり。

そんなことはしないで、自分の作品を求めてくれる人たちのために一筆一筆大切に向き合ってきた。

 

私が着物コラージュアーティストとして活動しだしたのが40代入ってすぐのこと。

それまでの私は特に何かを成し遂げてきたわけでもなく、自分に圧倒的に足りないのは”自信”だった。

自信を養うために実績作りに必死だった。

名のある場所での展示、公募展での受賞。

まずはそんなところからチャレンジを始めた。

2018年9月のニューヨーク個展にまで行き着いたとき、心が満たされるのではなく余計に穴が大きくなった感覚がした。

当時はそれがなぜだか分からず苦しんだが、今となってはその理由がよく解る。

 

自分を纏う鎧にばかり気にかけるだけで、それを纏う人間の成長に一目もくれなかったから

 

中身の人間と鎧は正比例する

 

それを無視すればギャップに苦しむ。

 

信長や秀吉、家康などは”首”なりの装いも加味された鎧を身につけていた。

鎧じゃないけど陣羽織なんて分かりやすい例。

当時は身分も大きく関係していたけど今は違う。

 

ここで言う”鎧”とは世間の”評価”と、それに伴う自分の”立ち位置”

 

だからこそ、自分で鎧を作ろうというのは筋違いで、自然と作られるものに自ら手を加えてはならない

 

中身の人間を育てるにつれ、勝手に鎧はバージョンアップされていく

 

潜在的にそこに気づいていたからか、NY個展直後に感じた虚無感が表出していたことに苦しんでいたのだと思う。

それから約2年の時を経てようやくその答えにたどり着いた。

 

公募展の応募は一展以外はやめた。
(この一展は尊敬する方の名前の付いたものなので自分が楽しむためとブラッシュアップのために参加している)

アートグループも脱退した。

 

実はアーティストとして名を馳せることは、私にとって夢でも目標でもない。

もちろん結果そうなるのはめちゃくちゃ嬉しい。

 

”そこ”を活動の”目的”としてしまうと、肝心の作品作りに支障が出てくる。

ベクトルが”鎧”に向いてしまっているから。

 

”狙い”に行っても”自滅”しやすいというのはそういうこと。

 

お金のために自分のやりたいことを我慢したり曲げても、自分の作品を求めてくれる人は多数現われるかも知れないけど自分の心はどうだろう?

 

インスピレーションは自分を大切に愛でていないと湧いてこない

 

湧いてきてもそれに気づかない。

それほど心に余裕が無い、という証。

私が制作活動をする上で最も大切にしていることは”自分の心”。

 

自分の心は見事に作品に反映される。

同時に、作品に対する姿勢もね。

 

制作時に抱いていた想いやパッションは、観る者にバイブレーションとなって伝わる。

 

▶『作品には生き方と本質が現れる

 

目に見えない世界は必ず存在する。

よく分からないけど感動する
よく分からないけど好きじゃない

 

美術館に行けばそんな経験はされたことあるでしょう?

それが目に見えない世界。

 

良く分らないけど笑顔になった
良く分らないけど元気出た
良く分らないけど頑張ろうって思えた

そう思ってもらえるような作品を作ることが私の活動理由の一つ。

 

それがアート活動をする理由ともなっている。

そう思ってもらえたら涙が出るほど嬉しい。

 

自分の想いや心を大事にして自分のやるべきことに向き合うと、なぜか孤独になる。

自分に必要なものだけを残していくと、なぜか孤独になる。

 

他人はそれをよく”人付き合いが悪い”と責めるけど、だからこそ交流ができない。

価値観が全く違うから。

 

孤高であること

 

それがどういうことであるか。

活動を続ければ続けるほど良く解ってきた。

芽が出てるかどうかは別として、私もそんな道へと進んでいる気がする。

孤独で泣きそうなときもあるけどね。。。