アートを通じて本当の自分を知る

私はかねてからアートを通じて本当の自分を知ることができると確信しています。

この「アート」というのは、創作者としてではなく「鑑賞者」として、です。

 

「アートを通じて本当の自分を知る=本心を知る」ことができると気づいたのは、2018年9月にニューヨークで個展を開催したときにまで遡ります。

 

naomariaの実体験 ~海外の方と触れて気づいたこと~

ニューヨークで個展をするまでの個展開催は日本国内のみ。

今までにないスタイルのアートを目の前に、観る人が尋ねてくることは「どうやって作っているの?」ばかり。

正直うんざり。

他に聞くことはないのか?と、さすがに言葉には出さないけれど腹の中でいつもそう思っていました。

うんざりの理由に、表面的な仕様や形状などしか見てもらえていない、という虚しさがあったから。
加えて、表現者には、それよりももっと奥にあるものに目を向けてほしい、という願いが潜在的にあるからだ。

 

ニューヨークで確信した日本と海外との違い

ただニューヨークでの個展は違った。

ニューヨークに住んでいるさまざまな国籍の方が観に来てくれたのだけれど、質問は

「この作品はどのような思いで作ったのか?」
「インスピレーションはどうやって湧いてくるの?」
「この作品の意図は?」

と、作品の背後にあるストーリーについてばかりだった。

 

2016年に東京で個展を初めて開催したとき、イタリア人の作家さんに「インスピレーションはどのようにやって来るの?」と質問され衝撃を喰らった記憶が鮮明に残っている。

このとき、日本人の一部鑑賞者にとどめの一言をもらっていたので、このイタリア人から光を感じたんだよね。

こういう視点でちゃんと見てくれる人が居るんだ!って。

 

翌年、外国人観光客が多くを占める久保田一竹美術館で個展を開催したときも、作り方ではなく”作品の向こう側”に興味を示す来場者ばかりだった。

このときに日本と海外とではアート鑑賞の仕方が違うんだなって感じたんだけど、実際に異国の地で体験すると、より強い確信へと変わった。

 

”作品の向こう側”から知れるもの

こうして”作品の向こう側”にあるものを、自分はどのように感じるのか。

そこまで難しいことを考えなくても単純に”作品を観てどう感じるのか、思うのか”。

そんな視点で自分も美術鑑賞をするようになる。

すると、あるときふと自分の本心に気づいた瞬間があった。

 

木梨憲武展でのことだったんだけど、彼の自由奔放な作品にジェラシーを抱くほど「自由」に敏感に反応していた。

こんなにも「自由」が快感だとはね。
分かっていたつもりだったけど認識することで「つもり」は消え、確実に「自由」を求めているんだ、と自分で気づくことができた。(自分で気づくことがポイント!

 

これは今の私にとってエッセンシャルなキーワードとなっている。

思えば、他に例のないスタイルのアートを作りだしている時点で、もうすでに「自由」だよね。

 

このように”作品の向こう側”は作者の意図だけではなく、観る側の心模様もうかがい知れる。

 

見たこともないものに対して本心は現れやすい

作品を通じて観る側の感情の揺れ動きを知ることができる。

心は目に見えないもの

正解が解るようで解らない、取扱が難しいものでもある。

 

その見えないものが、今まで見たことのないものを目の前にすると活発に動き出す。
その心の動きに注目すると、自分でも気づかなかった自分に出会うことが可能なんです。

脳が気づくための方法として私は「アート」が適しているんじゃないかと、自身が作品を作る表現者なので、色眼鏡でそう感じている。

「アート」と言ってもいろいろあるけれど、『モナリザ』や『ムンクの叫び』、『ひまわり』など超有名な作品じゃなく、よく知らないような作品が自分の本心を知るには最適。

見たことのないものに対して本心は現れやすいからね。

 

ここで自分の反応に意識を向けると本心があらわになってくる。
そこにどう気づくか、がポイントなんだけど、これはもう”心理学”の域となってくる。

だからといって難しい本を読んで分析する必要はなく、”無意識”な反応に気づき、今まで無意識だった感情を顕在化させるだけでいい。

それができるようになると、自分を知れるようになる。

最初はコツが必要だけれど、何度もやっていればいつの間にか身についてしまってる。
そうなったら、どんなときも俯瞰で自分を見られるようになる。

もちろん全てのシーンにおいてではないけれど、大概のシチュエーションではそれが叶う状態にまで辿り着く。

 

本来のアート鑑賞の楽しみ方

アート作品を見れば自分の本心を知ることができるんだけど、これは本来のアート鑑賞の楽しみ方だとも言える。

どう感じるか

ただそれだけ。

 

感じ方は千差万別でそこに正解はない

全ての感じ方は尊重されるべき尊い感情。
その人が存在しているプレシャスな価値と同じ重みがある。

アートには正解がない、というのはそういうこと。

 

何を意図して表現されたものかを問うのは学校教育の影響が大きい。そんなことよりも、心を育む年齢に通う学校では、アートを「観る」のでははく「感じる」ものだと教えてもらえれば、大人になって自分を見失う人が減るんじゃないかと感じる。

 

感じたことを上手く説明できない場合

アートを目の前にして感じる事に注目する。

それがなんなのか?

うまく説明できないとしたら、潜在的に何かが作用していると思っていい。
極端なことを言えば、魂レベルで反応している、ということ。

簡単に言葉で説明できるものは、表層的な理解なことが多く、根幹に眠っているものを見逃している可能性がある。

例えば、好きな異性がいたとする。
「どうしてその人のこと好きなの?」と問われて返答に困る場合、見た目や普段の行動だけではない何かに惹かれていると考えてもいい。

 

自分のことをよく理解していて、真髄までしっかりと認識していればきちんと言葉で説明することも容易でしょう。

ただ割合的にそのような方は少ない、というのが現状。

もちろん単純に「元気が出るから好き!」というのも大切だし、その人にとってみればれっきとした正解となる。

単純だからダメ、というわけじゃない。

 

初めに表出した思いを“きっかけ”に潜在意識へと自己を深掘りしていくと、突発的な問題が起きた時や想定外なことが起こった時、無闇にあたふたせずその事象に向き合うことができるようになるよ、というお話。

 

自分を知れるとストレス耐性ができあがる

心は目に見えないけど、確実に休みなく作用しているし、外界の影響を受け続けている。

気づかないうちにストレスとなったり、悩みへと繋がっていく。

私自身、自分の性格や特性を知るにつれ過度なストレスは減ってきている。

自分でどうにでもできることは大抵冷静に向き合うことができている。

ただ、どの時代も「対人間」となるとそう簡単にはいかないことが多い。
かくいう私も、今の悩みはそれが大半を占めている。

あまり人との交流がない私ですら。

逆を返せば、それ以外のストレスがなければ悩みの原因が統一化され単純化するから、今よりは随分と楽に生きていけるよね。

受け取り方をどのようにシフトするかで、いくら相手が非情であってもこちら側のメンタルの負担が(少しは)軽減できるようになる。

そのためには経験が必要なんで、しばらくは辛いことも続くだろうけど、一旦“コツ”を掴んでしまえば応用として実践を重ねるだけ。

それができるようになるとストレス耐性も強くなり、より豊かな人生を送りやすくなる。

 

身近なものでも自分を知れる

自分の本心を知るためにはアートを観なければならないか?と言ったらNOです。

SNSやTV、音楽、友人などなど。

自分が触れるもの全てに自分の本心を知るためのヒントが隠されています。

 

例えば芸能人のSNS。
キラキラしていて充実しているように見える。
それが「いいな」と思えば、そういった姿を自分が望んでいると推測出来る。

 

お笑い番組よりドキュメンタリー番組が好きなら、自分にとっては歴史やストーリーが大事だと思っている。

 

自分の周りにいる人達を見て、どういう人が多いのか。
その人たちは「今」の自分を代弁している。

心地よい人たちだと思えば、自分の理想どおりに生きている。
そうでなければ、自分の本来の想いや姿とは違う生き方をしている。

 

こんな風に身のまわりにあるものや人物の存在で、「今」の自分と「望む」自分の姿が浮き彫りになってくる。

 

最後に

アートであっても身近なものであっても、自分が意識して自分の感情に寄り添えば、少しずつ自分のコアに近づいていける。

そうなると自分をより深く知れるし、客観的に見ることも出来るようになる。

主観的な生き方は視界を狭くします。

客観的になる事で視野が広がり、思考も広がります。
悩みに対する解決法の選択肢も増え、よりバリエーション豊かな人生を送れるチャンスが増えます。

 

自分を知ることはストレス軽減だけでなく、多くの人の役立つ人生を歩めることにもなります。

人は関わり合って生きていくもの。

自分が得意なことや強い願いや想いを知り、それを活かし生きていく。

こうして人の役に立ち、人との関わり合いが強くなり、見える世界も変わっていく。

 

少しずつでもいいので、そんな風に意識して日々を暮らしてみましょう。

私も完璧な人間ではありません。
一緒によりよい人生を送れるよう歩いて行きましょう。