唯一無二のアートスタイルを生み出したnaomariaってどんな人?①

着られなくなった着物に
もう一度日の目を

という想いを胸に愛知県豊橋市を中心に国内外で個展や展示会など開催しています。

初めてここへ訪れた方は「naomariaってどんな人?どんなことをしてきたの?」と疑問に思うはず。

ひとことで語れるほど希薄な人生を過ごしてきていないし、そもそも既に人生折り返し地点に到達してるんじゃないか?と思うほど長く生きています。

なので、一度ここでこれまでのストーリーをじっくりお話ししますね。分割してお届けです!

 

今の「好き」を構成した幼少期

naomariaが生まれたのは70年代半ば。
家の前の道路はまだ舗装されていないほどのどかだった。
周辺にはそれほど住宅もなく、ミカン畑が広がっていた。

実家は自営業。
物心が付いた頃から両親の働く姿を見ていた。
月曜から土曜までみっちり働き、日曜日になれば父親は家族よりも釣りを優先する。

家族で出かけた記憶は長野県の湯治場くらい。

記憶にはないだけで、お出かけは数える程度だが写真を見つけた。
フェンスにぶら下がっているのが私。

「寂しい」というよりも、同級生のお出かけの話を聞くたびにうらやましかった。

 

○○へ行った、と聞くたびに想像が膨らむ。
どんな場所だろう?と。

 

想像するばかりの日々。
うらやましがる日々。

大人になって自力で実現できるようになったとき、初めて幼少期のこの達成されなかった小さな願いが叶った。

これが私の旅好きの原点でもあるかもしれない。

 

そう。。。

父親の作る疑似餌がとても美しく、いつも惚れ惚れしながら見ていた。

特にグラデーションが印象的でコレクションしたかったけど「高いんだよ!」と、はっきり断られた(笑)。

私の色に対する開眼はこのときだと思う。

 

そして当然の如く、何かを「作る」「描く」という作業は尽きなかった。

いとこがアニメ好きなので影響してアニメ風のイラストを描いたり、塗り絵をしたり。
フェルトで小物作りやハギレで人形の洋服を作ることもした。

ままごとよりもこういう遊びの方が断然好きだった。

編み物は、目を飛ばしまくって最終的には四角ではなく三角になってしまうほど苦手で続かなかったなぁ。

 

 心に傷を負い続けた学生時代

小学2年生のいじめ

小学2年生のときいじめにあう。
当然SNSなんてない時代なので今ほど陰湿ではない。

一学期始業式の夜、水疱瘡にかかり翌日から1週間学校を休んだ。

 

晴れて学校へ行けた日。

いきなり無視され始めた。

そんな状況なので全く腑に落ちず。
あっけにとられたのとむかついたのと、いろんな感情が入り交じっていたのを思い出す。

 

担任の先生に相談したが、笑って流された。

私も深刻に訴えなかったからだと思うけど
「この人に言ってもダメだ」
と10歳にも満たない幼い子供がすでに「期待しない」「諦める」ことを覚えてしまった。

そういえば、年長時の先生から意地悪を受けていたので、信用していい大人と信用ならない大人の区別を無意識でしていた気がする。

(先生は意識的に意地悪をしていなかったかもしれないけど、幼い私は十分傷ついたんだよね。無意識って怖い)

 

小学校高学年で今でも心に残る傷を負う

小学3年生では担任の先生に恵まれた。
そこで初めて大人を区別していたことにうっすら気がづいた。

この後、小学5,6年の先生(同じ先生)に幾度かひどい嫌がらせを受けた。

これ以降、この区別は自分を守るために必要不可欠な手段となった。

先生というのが”絶対的な存在”だった時代。
腹の中に収めるだけで精一杯だった。
もちろん人間不信にならない理由は一切ない。

思ったことをすぐ口にしてしまうのと曲がったことが大嫌いなので、先生にとって不都合な正義感を振りかざしていたこともあると思う。

先生にとっては面白くなく、もちろん私自身にも落ち度があると判断しての事だと思う。

それがクラス全員に見せつけるような痛み付けに繋がっていたのかと。

簡単に言えば公開処刑

子どもだけじゃなく大人だって傷つくのに。
それを絶対的権利者の先生に幾度もされたことに、今でも心に引きずっている。

(そりゃ、かわいげもないめんどくさい子どもだったと今では思うよ。でもだからといって感情的に子どもを扱って良いわけではないよね)

 

しかし、、見事に女性の先生ばっかなんだよね。。。だから女ってめんどくさっ、って思うようになったんだよ(笑)。コレは今も変わらない。

 

平和な中学時代と落ちこぼれな高校時代

中学時代は、先生にも恵まれ、楽しい3年間を過ごした。

当時の先生とは今でもお茶したり飲みに行ったりするくらいの仲。
恩師というものはこういうものなんだ、となんだか嬉しくなる。ここでの恩師は男性ね。

 

そして高校時代。
進学校だったのでみんな優秀。
ひとりだけ落ちこぼれのような気がしてならなかった。

(数年前の同窓会で、みんな同じ思いを抱えていたことを知って驚いた。みんな自分だけが「苦しい」「つらい」「不幸」みたいに思う生き物なんだね。ま、悩みや苦しみを共有しないから他人の心の内を知れず「隣の家の芝は青い」的な思考にとらわれるんだよね)

高校受験の時にすごく頑張ったので、入学後には気力が完全に失せてしまい、まともに勉強してなかったしね。

結果、「卒業できないぞ!」なんて先生に言わせるほどの成績をかまし続けた。

大学へ行く意味が全く解らないけど、進学校に入っちゃったもんだから行くしかない(と当時は思い込んでた)。

当時付き合っていた彼氏が理系だったので、文系のくせして私も理系を選択。
理系の4大に入学となりました。(よく合格したな、、と驚くよ)

 

転換期を迎えた大学時代 ~世界との出会い~

理系の大学。1年生はまだ基本科目が多いのでなんとかこなしてた。

ただ専門科目は宇宙語が飛び交うような時間で、本当に辛かった。
情報科学だったのでPCメインのクラス。
筆記試験じゃなかったのが救いだった。

 

1年生が終わった春休み。

かねてから憧れの海外へ行くこととなった。
大学主催の短期留学一ヶ月。
カリフォルニアにある大学の提携校で語学を勉強した。

 

このとき、世界の広さに驚愕し、私が目を向ける先はひたすら「海外」となった。

高校では海外に短期留学する人が続出で、中には退学してイギリスの高校へ行ってしまった同級生もいる。もちろん海外から留学生も来ていた。

加えて、洋楽にはまりライブにも行きまくっていた。

だからか自然と海外を意識することが多く、感心は強まっていた。

 

洋楽好きで英語漬けだったんで自信があったのだけど、留学先でのクラスは最下位のクラス。
あまりのショックで帰国後すぐに英会話教室へ入った。

どんだけ自意識過剰だったんだろう。。

 

そういえばこの留学期間中、一緒に行っていた先輩達に「(本名)ちゃんって疲れるよね~」「一緒にいるとしんどいわ」と陰口叩かれていたのを思い切り聞いてしまってものすごく傷ついた。

この時は「なんでそんなこと言うの?」と悲しくなったけど、今ならよーくわかる。

そりゃみんなと一緒じゃない性質が多すぎるから理解不能なんだよね。
よく言う「普通」から逸脱しているんだもの。

(そもそも「普通」って何?なんだけどね。そんな疑問も昔は皆無だった気がするわ)

 

今こうして表現者として生きていると、逆にそれが武器になるけれど、そうなるまでの数年前までは苦しみの種でしかなかった。今もまだ余韻はある。

 

2年生となり専門科目が増えてきた。
付いていくのが必死。加えて就職難が始まる。
このままでは「私、就職できないだろう」と焦りだしたので、大学をやめることにした。

退学して留学

学部長からは「みんな3年が終わってから留学するのに珍しいね」と。
まさか退学するなんて言えないから笑ってごまかした。

当時通っていた英会話スクールの先生からのアドバイスで、業者は一切通さず自分で全て手続きをした。

これは現地で何かあったときも、人任せではなく全て自分で対応することで状況把握ができ、また問題解決力を身に付けることができるという理由から。

 

こうして全て自分で手配し準備が整った。
旅立ちの成田空港まで一人旅かと思いきや、母親と母親の友人が見送りに来てくれた。

晴れて機上の人に。
期待を胸にアメリカはボストンへと向かった。

なぜボストンかって?!

当時夢中になり、その後の人生の軸ともなった大好きなバンド エアロスミスのホームタウンだから♡留学前に2度ライブを観にボストンまで行っている。10代でそんなことを平気でしていたんだよね。すごい行動力だわ。

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